2024年 つくば椿庵「重陽の節句」

日程

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2024年9月7日(土)~9月16日(月・
10:00~17:00(終了)

「重陽の節句」とは

「重陽の節句」も他の節句と同じく中国に由来します。
中国では奇数を陽数といい、中でも最も大きな陽数「9」が重なる9月9日を「重陽の節句」とし、無病息災や子孫繁栄を願って祝いました。その風習が平安時代の日本に伝わり、江戸時代には「五節句」の一つとして広く庶民にも親しまれました。

日本では、旧暦9月9日は現在の10月中旬ごろに当たり菊が見ごろを迎える時期。菊は邪気を払う力を持つと信じられていたこともあり、「菊の節句」とも言われ、菊の花を観賞し、菊湯、菊枕、菊酒、菊の着せ綿などにより無病息災や不老長寿を願いました。

江戸時代には、重陽の節句にひな人形を再び出して飾る風習があり、その風習から「大人の雛祭り」「後の雛」などとも呼ばれます。人形を虫干しして長持ちさせることが、長寿にもつながると考えられたためです。
菊の着せ綿
「菊の着せ綿」とは、重陽の節句に行われる宮中の習慣で、重陽の節句にちなんだ秋の季語でもあります。「きせわた」は「被綿」とも書きます。

もともとは平安時代の貴族の習慣で、重陽の日に菊の花に植物染料で染めた真綿を被せ、明くる早朝に朝露を含んだ綿を菊より外し、その綿で体を拭えば菊の薬効により無病であるとされました。
室町時代には菊酒という菊を浸した酒を飲むことも行われるようになりました。

これもまた、中国の伝説に、上流に菊の花園がある滝の菊の花びらが漬かった水を飲んだ人が長寿を得たという話があり、また能の「枕慈童」に中国の故事として菊の露を飲んで不老不死になった少年が登場するなど、菊を服用して薬効を得るというのはもとは中国の習慣だったようです。
和菓子の「着せ綿」(被綿・きせわた)
旧暦の時代には盛んに行われていた着せ綿も、新暦が採用されてからは菊の開花の時期のずれなどもあり、次第に行われなくなりました。
こちらの写真は和菓子の「着せ綿」。実に繊細で美しい練り切りで食べるのがもったいなくなります。
季節感を大切にする和菓子の世界では伝統の意匠のようですが、練り切りを作る和菓子屋さんがめっきり減ってしまったのがとても残念です。
菊柄の皿は、箱書きに「嘉永五年三月」(1852年)とある「白中皿」10枚揃のうちの一枚。白い菊の花びらの部分は全て浮き出ていて、昔の人の技の細かさに感心します。
折形「菊の花包み」

「折形」(おりがた)とは、物やお金を贈る際の和紙による包みで、そこには、日本古来の考え方に基づく原則と美意識、相手を思う心が込められています。

元来折形は、武家の秘伝で、家々の中での口伝によって守り伝えられましたが、江戸時代になると和紙が安価に大量に出回り、しだいに庶民の生活に溶け込み、冠婚葬祭に配る赤飯や餅に添える塩やきな粉を紙で包んで添えるというような使い方をするようになりました。

戦前は女学校などで作法として授業に取り入れられ、各家庭で必要なときに自分で作っていたそうです。
しかし、第二次世界大戦終了後、学校教育が一変し、学校教育で折形礼法が扱われることはなくなりました。

和紙特有の品の良さと「折形」の端正な美しさ、その歴史的な背景にあるおもてなしの心や相手に寄り添う気持ちを伝えられる折形の素晴らしさが再認識され、日本の伝統的な文化の一つとして受け継がれていくことを心から願っています。

今年は、「菊の花包み」の先に小菊で大きな菊を象りました。
竹灯籠を灯すと幻想的な世界が広がります。

当庵に飾っている「菊の花包み」は、筑波山神社入口にある老舗旅館の社長(大女将)様からお譲りいただいたもので、かつてご自身で折られた折形です。心から感謝申し上げます。

室内展示

玄関の間

次の間

次の間から奥座敷

奥座敷

奥の間

玄関の間から四畳座敷

菊いろいろ

菊柄白中皿
(嘉永5(1852)年)

朱漆に菊花蒔絵

菊のお祝い

霞蓮雛(かれんびな)
(土浦市)

菊いろいろ

筒描き&柿渋染め「重陽の節句」

菊柄古布に錦彩陶器掛飾り「重陽」

菊文様七五三晴れ着
(昭和30年代)

掛軸「菊に雀之図」

小見出し

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